縫い続ける文脈

ここ1ヶ月くらい、じっくりとゆっくりと本棚と整理している。本当は一気に自分なりの本の並び順に整えてしまいたいところなのだけれど、案の定、手に取るたびに中身を読みあらためてしまうので、ゆっくりとなってしまう。もうそれを仕方ないと思ってじっくりと時間をかけている。

僕はいま仕事にしていることについて完全に独学でここまでやってきたので、学校における教科書や先生に相当するものは、すべて本棚の書籍や雑誌たちになる。自分に学びや刺激を与えてくれた本を捨てることはできず、今まで部屋におけるだけ本を買い続けてきたので、自分でも何がどこにあるのかまったく分からない状態になっていた。

しかも以前は、必要な時に必要な本だけから情報を得たい、と考えていたので、本の背表紙がずらりと本棚から見えている状態が“ノイズ”のように感じていたので、すべてボックスにしまいこんでいた。そのため余計にどの本がどこにあるのか分からなくなっていた。

まずファイルボックスからすべての本を取りだし、明らかに不要だ、と判断した本を処分した。処分した本は全体の1/3くらい。残りの本をとりあえず本棚にしまった状態で一旦整理整頓を終えた。ここから本をカテゴライズする作業はかなり頭を使うであろうことが目に見えていた。背表紙が全部見えているだけで本を探すだけなら十分だった。とはいえこれは本棚としての一般的な佇まいではあるが。

独学のために雑誌や書籍から学んできたが、いわゆる専門書籍はそこまで多くないのがこの本棚。カルチャー誌とか少し離れたところに位置している本が多いように思う。でも結果としてそれが今の僕を形成している。専門書籍じゃないからといって仕事に役に立っていないかと言われればそんなことはなく、知り得た情報はいつか何かと結合する。本を読むたびに太い線、細い線、短い線、長い線が無作為にバラバラに描かれ、それぞれが何かの拍子に繋がって意味を持った文脈となる。そして、大概その“何かの拍子”は仕事の場面だった。

これがインプットとアウトプットの関係なのかな、と思っていて、仕入れてこねて束ねて発信するという一方向ではなく、バラバラに縫い続けている内にあっちとこっちにあった線が繋がった、という関係なのかなと。縫い続けている内に文脈になっていく。その縫う行為が本を読むということなのかなと思っている。だから読む本は統一感がなくてもいいと思う。結果として当たり前のことしか言ってないかもしれないが…