「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1

高畑勲の狂気と、恩恵

 

「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1|文春オンライン
「高畑勲監督解任を提言したあのころ」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #2|文春オンライン
「緊張の糸は、高畑さんが亡くなってもほどけない」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #3|文春オンライン

 

高畑勲がジブリ在籍時代に手掛けた監督作品数は5つ。これを聞いて少ないと捉えるか多いと捉えるか。ちなみに宮崎駿の監督作品数は倍の10である。

 

 

2018年4月に亡くなった高畑勲については、ざっくりと遅筆な人なのか芸術性を追求していた人なのか程度にしか認識をしていなかったが、文春オンラインに掲載されたプロデューサー鈴木敏夫のインタビュー記事を読んで戦慄が走った。こんな狂気な作り手は、時代性もあいまって今後二度と見聞きすることができないかもしれないと思った。

記事中に散りばめられた、胸をえぐられるような文章たち。

 

問題は作り方なんです。まわりの人間を尊重するということがない人なんで、スタッフがみんなボロボロになるんですよ。

 

50人からいる動画マンの仕事はなくなり、…(中略)…スタッフは次々に倒れ、消えていきました。

 

とくに企画段階では、最低でも毎日10時間はそういう話をしなきゃならない。

 

高畑さんと付き合い続けた西村はどんどんやせ細っていきました。28歳で関わって、完成したときにはもう36歳。その間に結婚して、子どもまで生まれました。

 

結果的に8年の歳月をかけて、日本映画史上最大の50億円もの予算を費やすことになるわけですが、僕としてはいっさい焦りを見せないようにしていました。

 

3回の記事にわたって鈴木敏夫から語られた高畑勲という人物の狂気。これら事実は時間の経過とともに半ば武勇伝のように語り継がれていくのだと思うが、高畑勲という巨星が亡くなって間もないタイミングでこの記事が公開されたことを考えると、本当に彼と距離の近い場所にいた、いわゆる渦中の人たちにとっては単なる思い出話では済まされない感情が今も淀んでいるんだろうな、と感じさせられた。

 

そしてこれらエピソードを読んだ上で、なにやら感情を整理しきれないでいる自分がいるのは、同じ〈ものをつくり、社会に働きかけをする〉仕事に就いている者としてだからなのだろうか、恐ろしさの裏側に羨ましさみたいなものを受け取ってしまった。

 

だってこんなにもつくるものに対して正直で、つくるものの純度のことだけを気にすることなんて出来ないから。ひとりでつくることができるものって少ないし、だからこそ協業や協調もつくるプロセスの中には大事にされる。むしろそれもつくるということを形成する一つの要素だとも思う。

 

でも高畑勲はそれらを一切無視してものをつくってきてきた。鈴木敏夫もはっきりと言い切っている。

 

とくに高畑さんの場合、いい作品を作ることがすべてであって、その他のことにはまったく配慮しない人でした。

 

読んでいるうちに脳裏に浮かんだ単語は、ちゃんと鈴木敏夫によって言語化もされていて、非常にすっきりとした。

 

よくいえば作品至上主義。でも、そのことによって、あまりにも多くの人を壊してきたことも事実です。

 

映画作品をつくり世に送り出す、という仕事は一般的とは言えない特殊性を帯びている部分があるにせよ、ここまで徹底することなんてなかなかできることじゃない。一緒に仕事をするメンバーを殺そうとしてでもつくるものの本質だけを見続けながら押し通し抜くなんて、そっちの方が難しすぎる。

 

でもそれは作り手がどこかで抱える”憧れ”でもある。僕も、つくる途中で妥協を重ねる。妥協と修正の積み重ねによってつくるものがより良くなっていくと信じて日々折り合いをつけ続ける。それがない世界への憧れ。それを体現した高畑勲という人は、やはり狂気そのものでしかない。

 

そんな狂気は現代社会でたちまちにはじき出されてしまう。それでもそうはならなかったのは、

 

振り返ってみると、高畑さんが自ら本当にやりたいと言って作った作品はありません。それでも、僕自身を含め、まわりに人が集まってきて、高畑さんに作品を作らせてきた。それが高畑さんの才能の故だったのか、僕にはよく分かりません。

 

ということなんだと思う。それでも求める人たちがいた。そしてそれは大きな評価を受けて、また欲しがる人が出てきた。その繰り返し。

 

遺作となった『かぐや姫の物語』も日本テレビ会長の氏家齊一郎が「死ぬまでにもう1本高畑の作品が見たい」と言ったことに端を発している。どんなに赤字になってもいい、金は俺が出す、とまで言わせる才能。クラウドファウンディングでは作り手側が「こんなものをつくりたい」という思いに対してお金を出す側が集まってくるけど、お金を出す側がお金を積んで「あなたの作品をつくってくれ」と言う。

 

そのおかげで、僕はそうしてまで世に生まれた作品の有難さを享受している。『かぐや姫の物語』の解釈には心から感動した。「このタッチでジブリに過去の有名おとぎ話を映画化していって欲しい」と無責任にも思ったくらいだ。高畑勲の作品がしばらく心の中で熱さを失わないのは、氏家齊一郎が言った一言に集約されている。

 

高畑の映画には詩情がある。

 

まさにその通りだと思う。僕個人の持論として、音楽や映像などの作品は「人が抱える感情の機微について、言葉で言い表せるものはほんの少ししかなくて、音楽などは言葉に代わるものとして必要に存在している」と思っている。

高畑勲の詩情によって、僕たちは想像を掻き立てられ、社会に働きかける原動力をもらっているのだろうと思う。鈴木敏夫のこれらインタビュー記事は、高畑勲の詩情と同等のものを心にもたらせてくれたと深々と感じたのだった。